no title ― 2011/02/08
「便利」を疑ってみる。 ― 2011/01/13
炊飯の準備をしていてふと思ったこと。
とあるきっかけで水道水を口に入れるものに使う事が気になって、天然水を買って使う様になった。そこで出てきた問題が、米研ぎ。それなりに沢山の水を使うので、水道水なら気にならなかった事でも、買ってきた水となるとさすがに勿体ない。そこで、お米を無洗米にしてみた。鍋にお米を入れて、定量の水を注ぐだけ。研ぎ汁も出なければ、手も濡れない。便利。でも、この便利さの裏側で無くしてしまうものの多さに気付いて少し寂しくなった。そして、子どもがそんな炊飯しか知らなかったらと考えると怖くなった。僕の中の炊飯に対する原風景は、小学生の時にやった飯盒炊飯にある。飯盒で米を研いでそのとぎ汁を流す時の感覚。勢いがあり過ぎると米粒が流れ落ちてしまうし、米粒をこぼさない様に手で塞き止め過ぎるとなかなか研ぎ汁が流せない。多分、そのときの指先の感覚や、米粒ひとつひとつへの思いは、この便利さからは生まれてこないものだろう。
今の世の中には同じような事が沢山あふれ返っていると思う。勿論、無駄に不便である必要は無いけれど、過剰に便利である事も同じくらい不必要な事なのかもしれない。
とあるきっかけで水道水を口に入れるものに使う事が気になって、天然水を買って使う様になった。そこで出てきた問題が、米研ぎ。それなりに沢山の水を使うので、水道水なら気にならなかった事でも、買ってきた水となるとさすがに勿体ない。そこで、お米を無洗米にしてみた。鍋にお米を入れて、定量の水を注ぐだけ。研ぎ汁も出なければ、手も濡れない。便利。でも、この便利さの裏側で無くしてしまうものの多さに気付いて少し寂しくなった。そして、子どもがそんな炊飯しか知らなかったらと考えると怖くなった。僕の中の炊飯に対する原風景は、小学生の時にやった飯盒炊飯にある。飯盒で米を研いでそのとぎ汁を流す時の感覚。勢いがあり過ぎると米粒が流れ落ちてしまうし、米粒をこぼさない様に手で塞き止め過ぎるとなかなか研ぎ汁が流せない。多分、そのときの指先の感覚や、米粒ひとつひとつへの思いは、この便利さからは生まれてこないものだろう。
今の世の中には同じような事が沢山あふれ返っていると思う。勿論、無駄に不便である必要は無いけれど、過剰に便利である事も同じくらい不必要な事なのかもしれない。









